「日本料理には、“この季節にはこの魚”という型があります。でも、それが全てではないはず。

魚種にこだわらないことは、新しい日本料理を生み出すフックのひとつになると思います。伝統はいつだって、“今”を生きる人が作るのですから」

C-BlueメンバーインタビューVol.2は、「てのしま」の林亮平さんです。

林さんは京都の老舗料亭「菊乃井」の出身。和食のユネスコ無形文化遺産登録を実現させた主人の村田吉弘氏の右腕として、世界各地で日本料理を発信してきました。独立を機に日々向き合っているのは、日本各地で食べ継がれてきた知名度の低い地魚。その背景にある思いを聞きました。

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「菊乃井」時代、世界各地で和食の魅力を発信する一方、日本の食文化の根本が揺らいでいることへの不安を感じていたという林さん。

担い手不足や資源の不足、生態系の変化が、日本のあらゆる一次産業で起きている。独立に向けて、日本各地の生産者を訪ねる中で、その危機感は一層強くなりました。

「Chefs for the Blueの活動にお声がけいただいたのも、何か行動をしなくてと考えていた時期でした。この豊かな自然を守らなければ、日本の食文化を未来に繋ぐことはできない。1㎝でも明るい方に向かえるならと、迷わず参加しました」。

魚の仕入れ先も一から開拓しました。「大切なのは、一緒に未来を見られるかどうか。志を同じくする人とは、自然に繋がっていきます。皆、協業しなければ前に進めないとわかっているのです。

産卵期の魚や未成魚を避けることのほか、基本的に、僕は魚種を指定しません。減っているのに一部の人気魚種を奪い合っても仕方がない。それよりは地元でしか消費されていない、もしくは地元ですら使い方を忘れてしまった、知名度の低い魚の価値を高めて漁師さんを支えたいなと」。

開店当初は聞いたことも見たこともない魚が届くのは日常茶飯事。どんな魚か、どうやって食べるのかは、その都度、電話で教えてもらいました。営業前の限られた時間で初めての魚を調理するのは並大抵のことではありません。でも、知らないからこそ、新しい出会いがあって面白いと林さんは言います。

日本料理には、長い伝統の中で培われた「型」があります。

「この季節にはこの魚、というのもその一つ。それは確かに素晴らしい文化ですが、型が全てではないはずです。

『茶にてあれ、茶にてなかれ』——型にはまり過ぎるあまり、茶の湯の本質を見失ってはいけない。民藝運動の創始者である柳宗悦が残した戒めの言葉です。僕は、料理も同じだと思います。

日本は東西に長く、地域によって獲れる魚が違うし、食べ方も違う。日本料理は京都だけじゃない。もっと広いはずだし、いろんな形があっていい。そう考えたら、知名度の低い魚を使うことだって、少しも特殊じゃないですよね」

ある日は、125年続く瀬戸内の魚屋から、ヒラというニシン科の魚が送られてきました。岡山では昔からバラ寿司という郷土料理になくてはならなかった魚ですが、小骨が多く、いつしか食卓から姿を消していました。

「これが、めちゃくちゃおいしい。料理人の技術があれば、新しい日本料理が生まれる可能性はいくらでもあります。伝統はいつだって、“今”を生きる人が作ってきた。魚種にこだわらないことは、そのフックのひとつになると思います」。

仕入れの際、心に決めていることは他にもあります。「言い値で買う、届いた魚に文句を言わない。お互い全力でやっているわけだから、文句を言うのはナンセンス。適正価格だって漁師や仲買が決めるべきだし、サンプルにもちゃんとお金を払います」。

もし、とんでもない価格を提示されたり、使い物にならない魚が届いたら……?「それは僕が信頼されていないということですよね」。

相手に多くを委ねることに不安はないのでしょうか。
「覚悟を決める、それだけです。水産資源の問題は全てそう。漁師も仲買いも料理人も、考え方を変える時が来ていると思います。現実に向き合い、自分と向き合い、昨日までの価値観を捨てて、未来を見る。
それは勇気のいることですが、やるしかないんですよ」。

修業時代、村田氏から繰り返し言われてきた言葉があるそうです。

「公利」——料理を通じていかに社会貢献をするのか。

「僕は人生を掛けて何をするのだろうと考えた時、手島のことが頭に浮かびました」。

手島は香川県丸亀市にある瀬戸内海の小さな島。林家の本家があり、自身も毎年お盆に訪れています。歴史は古く、最盛期には千人近くいた島民も、大切な産業だった廻船業の衰退もあり今ではわずか16名の限界集落に。ここに林さんは宿泊施設を建設するプロジェクトを進めています。

「まさに日本の縮図です。だからこそ、手島で宿泊施設を開きたい。それを契機に様々な雇用を生み、自給自足の形を取り戻したい。最終的に島で利益を生む構造を作ることができれば、全国のモデルケースになると思うのです」。

誰もが無理だと言う壮大な目標でも、仲間を作り、社会的なアクションを起こしていけば、いつか実現できる。

村田氏の背中を見続けてきた林さんは知っているのです、「愚直な思いこそが社会を変える」と。